園長コラム「こどもの眼」4月号
てんし通信4月号
「こどもの眼」~〝教育〟の両輪~
園長 早川 成
新年度のスタートを目前に控えたある日。山積みの仕事が全くさばけず、帰るのが夜8時近くになってしまいました。園庭を歩いていると、教会の玄関でボーイスカウトの親子に会いました。4月の集会の打ち合わせをすることになっていたのを忘れていた私が、お母さん(副長さんです)に「あ~っ、そうでしたね。すっかり飛んでました。頭の中がグルグルで、今から打ち合わせはちょっとキツイなぁ」というと、隣にいた6年生の子が「隊長、酔っぱらってると?」と一言。お母さんからは「なんば言いよるとね。隊長は仕事が忙しくて疲れちゃるとたい!」と間髪おかず怒られていましたが、人のイメージは、常日頃の言動で作られるのでしょうから、自業自得というか、身から出た錆というのか、私は「いつも飲んでると思われているのかなぁ?」と苦笑いしていました。
さて、それはさておき子ども達の日頃の行動や考え方の基本も、私達の関わりや言葉かけの積み重ねによるものだと考えると、私の〝教育観〟もまた私が学校や家庭で受けた教育によって育てられたものであることに気が付かされます。そして、当園の教育には、当然園長である私の教育観が根っ子にあるというわけです。言ってしまうと自分の首を絞めることにもなりますが、年度の初めに当たり、あえてそこに触れてみようと思います。
私が幼児教育を通して「育てたい」(育って欲しい)と思っている力の一つに〝考える力〟があります。物事を教えられたままに憶えたり、知識や情報を詰め込んだりするのではなく、「自分で考えてみる」ことを大事にして欲しいと思います。ところが、そう思って子ども達を見ていると、考える前に「やってみたい」という意欲が持てず、また考えてばかりで「やってみようとしない」子が増えてきている気がしてきました。うちの園では「私やりたい」という声がまだまだ聞かれますし、考える前に「やってしまう」子もたくさんいますが、社会を見渡すと全般的に遠慮がちで、用心深い若者が増えています。五感を働かせ、手足を動かし、汗をかき、試行錯誤しながら、まず自分でやってみる。考える力の前に〝やってみる力〟を育てることが必要になってきました。がしかし…です。そんな思いで過ごしていると、今度はやってみる前に〝失敗する力〟をつけなければならなくなりました。「失敗が怖くてしない」「できないのがイヤでやろうとしない」、そんな子が多くなってきています。「できる」のが凄いこと、「わかる」のが偉い人という価値観を大人が刷り込んでしまった結果ではないでしょうか。自己肯定感や自尊感情が低い子が増えていることが問題になっていますが、否定や叱責ばかりはよくないものの、何でもかんでも褒めればいい言うものではないはずです。失敗しないように、上手くいくように配慮して、成功体験ばかりでも、大した達成感は得られません。壁を取り除き、でこぼこ道を平らにし、歩きやすい道を行く経験ばかりでは、転ぶ(失敗する)ことが怖く、知らない道を進む(やってみる)楽しみも味わえず、道を選ぶのも、迷った時にどうするかも、自分で考えることができない大人になってしまいます。これはとても大変なことです。ですので、子どもが間違えたら褒め、できないと泣いたら喜び、失敗したら「よくやった!!」とお祝いする。それぐらい思い切って価値観をひっくり返し、できる・わかるが良しとされる「良い子ストレス」の呪縛から、こども達を解放したいと思っています。
ところで、私のこの「教育観」はどこでどのように生まれたのでしょう?思い起こしてみると、一つは親から、もう一つは中学校の時の数学の先生の影響であることに思い至ります。うちの親からいつも聞かされていた言葉は「死にゃあせん」。間違っても、できなくても、失敗しても、いつも「死にゃあせん」で済まされていたように思います。それともう一つ「だまされたと思って…」というのもありました。好き嫌いをすると「だまされたと思って食べてみなさい!」と言われ、何かに躊躇していると「だまされたと思ってやってみろ」と言われ、だまされ続けました。まずくて吐き出しても、痛い目に合い後悔しても、「死にゃあせん」でおしまい。今思うと、ナント便利かつ最強の言葉でしょう。「そんなにクヨクヨしなさんな。人間なんとかなるもんよ」と開き直ることを教えられた気がします。大らかな、いい時代に育ったと思います。
中学の数学の先生(1・3年の担任)からは「消しゴムを使うな」という教育を受けました。テスト後の最初の授業はいつも、採点した答案用紙を返し、答え合わせと解説が定番でしたが、間違っている解答を消しゴムで消して書き直すと、こっぴどく怒られました。今だと問題になるぐらい激しい先生でしたが、「正答を書き写しても意味がない。どこをなぜ間違ったのかがわからないと、同じ間違いをする。間違うからわかるようになるんだ。」いう信念に満ちたわかりやすい教えでした。
そういえば、我が子が小学生の時、宿題は親が点検して間違いを修正してから持って来るよう言われていることに驚いたことがあります。ちゃんと宿題をしているか、習ったことをどれぐらい理解しているか、親として知っておく必要があるという指導は理解できますが、我々が子どもの頃は、暗くなるまで遊び、あとでやろうと思っていたもののTVを見てしまい、親には少し後ろめたさを感じながら宿題はないと嘘をつき、先生の前では観念して怒られたり、間違いだらけで×をたくさん付けられたプリントを親に見つかって呆れられていたものです。また友達と遊んでいて面白い場所を見つけると学校の行き帰りに我慢できずに立ち寄って遊び込んでしまい、遅刻したり帰りが遅くなったりして叱られることも度々ありました。つまり、自分でやらかしたことを自分で始末すること、自分で決めたことに自分で責任を持つ経験が減っているのではないかと思うのです。45年以上も前のことで今とは事情が全く違い、比べるのに無理があるかもしれませんが、いつどこにでも大人の眼が行き届いている環境の中で〝宿題をしない権利〟〝寄り道をする権利〟〝失敗をする経験〟が損なわれています。
園長の「教育観」の話が、何だか変な話になってしまいましたが、本来、子どもは、いけないと言われることをやってみたくなり、大人がしてほしくないことをしでかします。ダメだと知っていても、叱られるとわかっていてもやってしまうのが〝本能〟なんだと思っています。
子ども達は、園生活の中で、やりたくてやってみる、やってみて失敗し、失敗しては考える。そして考えたことをまたやってみて、できなくて泣き、上手くいって笑い、その繰り返しでいろいろなことを学び成長します。そうやって子ども一人ひとりの〝生きる力〟を育てる営みが、当園の「教育」だということを改めてお伝えしておきたいと思います。
私のこの教育観は前述のように家庭と学校で育てられました。こどもの成長には、親と教師が〝教育の両輪〟となり、協力して関わることが本当に大切です。この一年間、どうぞよろしくお願いします。
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